東京凰籃学院

小論文で「遊ぶ」

〜'98慶應法学部の問題から〜


 勉強は楽しまなければやってられない。もちろん「遊ぶ」といっても,マンガを読むようにはいかない。しかし,一見つまらない問題でも,何とか相手のしようはあるものだ。ここでは,

つまらない問題に,いかにして興味深い問題点を発見するか

ということについて書いてみたい。

 入試直前期である。必ず役に立つ内容を提供するつもりである。オフラインにでもして,じっくり読んでみてほしい。

 一見つまらない小論文の問題として,'98年度慶應法学部の例(出題者の先生,失礼)をあげて考えてみる。文章の内容を500字で要約し,500字で意見を書くというものである。

 まずは要約文。

★ 課題文の要約

 日本人は元来,身近な人間関係である「世間」の利害に則って建前の発言をし,個人的意見は本音として隠されていた。明治以降の近代化政策も制度面に限られ,人間関係については従来のままであった。つまり「世間」は存続していたのである。

 しかし知識人は西欧の人権思想に強く惹かれていたし,実際欧化主義政策は進んでいたため,彼らは公的な場では欧米流の発言をすることとなった。

 欧米の個人のあり方を理想とする進歩的発言は,当然,彼らを縛る「世間」,すなわち旧来の人間関係とはかけ離れている。ゆえに公式の発言から「世間」が隠されることになる。しかし人々は相変わらず「世間」に強く束縛されて生きているので,知識人の発言は空虚に響く。

 かくして欧米流の公的発言は建前と呼ばれ,信用されなくなってしまった。同時に,発言の裏に,彼らにとってのしがらみ,則ち本音を探ろうとする動きが生まれる。かつて建前だった「世間」が,こんどは本音として信用を集めることになる。

 こうしてわが国の近代化における最大の問題が生まれた。あらゆる分野で言葉は信用されなくなり,常に真の意図が探られるという二重生活を余儀なくされたのである。

 まあ,この文章を読んでただちにおもしろいと思う人はあまりいないだろう。しかしこれでも,わかりやすいように,だいぶ工夫して書いたつもりである。時間のある人は原文を読んでみてほしい。あまりにつまらないので卒倒するだろう。

 だが,だからといって解答がつまらなくていいということにはならない

 結論の方向性としてつまらない例を挙げてみよう。括弧内はそれについてのコメントである。

その1

 二重性はどこの社会にもあるから,要はその実態を把握しつつ建て前と本音を使い分ければいいのだ。

(それはそうだが,そんな当たり前のことを書いてどうするのか)

その2

 カッコつけて欧米流の発言をするのをやめて,素直に本音を語ればよい。

(そうしたら紛争が絶えない)

その3

 空虚な建前論を廃し,近代化以前に還るべきだ。

(これはよく聞く例だが,上の要約にもあるように,建前論は魅力的で美しいからこそ流通するのだし,欧米では空虚なものではない。そう簡単に還れないだろう)

その4

 「世間」の中にも個人主義を導入するよう啓蒙すべきだ。たとえば自己主張したり議論をしたりすべきだ。

(日本の社会的土壌に合わない。腹芸や根回しなど日本の集団主義は,紛争を避け,生産効率を上げるとしてそれなりに評価されている)

 なにより,こういう表面的な議論をしても,小学校の学級会のようでつまらない。では,どうしたらよいか?

 もっと重大な論点を読みとるのである。 

 そもそも何のために筆者はこんな文章を書いたのだろうか?筆者の問題意識は何なのか?この課題文で指摘されている「二重生活」とは何だろうか? 

 それは,

人間の個我に対する二重の抑圧

なのである。

 このような視点でもう一度本文を見てみよう。こういうストーリーになる。

 近代化以前は「世間」を優先させるために個我は抑圧されていた。そして欧米型個人主義は個我解放への燭光となったが故に知識人は惹かれたのである。ところが,その理想は建前として信用されなくなり,かつて個我を抑圧した「世間」はより一層信用されるようになってしまった。

 つまり欧米の個人主義を打ち負かすことにより,個我抑圧の装置であった「世間」が一層パワーアップしてしまったのである。たとえていえば,中途半端な近代化が「効かないワクチン」のように働き,かえって「世間」の耐性を高めてしまったようなものだ。

 制度,特に法制度は欧米流でありながら,人間関係は昔のままなのである。ゆえにここには人権と,そして社会制度の根幹にかかわる危機感がある。

 このような問題点を踏まえて答案らしきものを書いてみよう。賛成でも反対でもどちらでもいいのだが,ここでは禁断の「反論」バージョンでいってみる。

★ 答案例

 筆者が「最大の問題」とまで言う二重生活とは,人間の個我に対する二重の抑圧であると思う。長らく日本人の個我を抑圧してきた「世間」は,近代化政策にもかかわらず生き残り,より信用されるようになってしまった。

 しかし私は,このような二重生活や「世間」を斥けるべきとは思わない。

 自己主張を避け,腹芸で事に当たる日本の集団主義は,戦後の高度成長期に生産現場で大きな成果をもたらし,世界有数の治安国家を生んだ。

 しかも,都会の人間関係が希薄になったと心配され,むしろ「世間」の消滅が危険視されているではないか。社会と距離を置けばより個我が守られるかに見える。だが,その結果が,精神疾患を大量に生んだアメリカ型個人主義社会だ。

 私は個我の確立と「世間」が矛盾するとは思わない。確かに公的発言が信用されないのは不便だし,人間関係が煩雑だと思う瞬間もあるだろう。だが,なにがしかの権力をもつ者の公的発言は,むしろ批判精神をもって疑ったほうがよい。これこそ個我の確立ではないのか。また,人間関係は個我の発現のために役立てるべき性質のものだ。

 社会関係としての「世間」は,徒な自己主張から個我を解放し,社会貢献という名の自己実現へと我々を導くのである。

 筆者の指摘する問題点

「公的発言が信用されない」

「世間がわれわれを束縛している」

については,必ず意見を述べねばならない

 そして最後の段落を見てほしい。末尾は重要だ。ビシッと決めてほしい


 それはそうとして,実は,このような「日本の社会的土壌」と「(法)制度」のギャップに関する問題は,東大文一の後期小論文でも頻出なのである。たとえばこんな具合。

・ 日本社会において紛争解決を裁判に求める意義。出典の題名がすごい。「裁判と義理人情」(平成10年度)

・ 西洋型民主主義と日本の「和」を求める伝統のギャップ(平成9年度)

・ 日本的集団主義と個人主義の関係(平成8年度)

……中略……

・ 裁判官の個人的人間関係(平成4年度)

・ 北欧型老人福祉と日本社会(平成3年度)

・ 少年非行と日本社会(平成2年度)

 頻出テーマだけに,微妙なヴァリエーションごとに,自由に論文を書けるようにすることが重要だ。集中的な分析と対策を行うべきジャンルといえる。

 健闘を祈る!


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