東京凰籃学院

'99慶應法小論文へのコメント


 本年度慶應法学部の小論文がちょっとした話題になっている。戦争責任と国家賠償というきわめて微妙な問題を扱っているからだ。もちろん,これは入試問題であるので,そのような言論に深入りすることがこの問題の意図ではないと思われる。以下に簡単にコメントを記しておきたい。


 これは1999年という古い時期の入試問題ですが,その後,本問が予言したような,あるいは下記答案例のような, 歴史的検証がかなり進みました。その結果,司法の場などを通じて, 韓国側の要求には根拠がないことや,日本国内の報道のねじれなどが明らかになっています。 おそらく今後,国家賠償が具体的な形で政策に上ることはないでしょう。 しかし,それでも現代の外交摩擦は歴史的解釈から始まることが多いので,以下のような歴史的検証は 今後も必須であり続けるでしょうし,その意味で,この入試問題に関する考察は普遍的であり続けると思います。

1 問題の内容

 まず,課題文の要約を示す。設問は,これについて「考えるところを自由に論じなさい」というのものである。

 アジア諸国の人に対する日本の戦争責任が今問われている。日本と同様復興を果たしたドイツでは,戦後一貫してナチス戦犯に対する追求と,その被害者への補償を行ってきた。有罪判決は多数にのぼり,補償額も巨額である。

 これに対して日本では,みずからを裁くことをしてこなかったし,補償も日本国籍をもつ戦争被害者の遺族にほとんど限定されてきた。そこには,この戦争に対して被害者意識が先行してきたという背景がある。しかし近年,従軍慰安婦問題を皮切りに,戦後補償問題が法廷に持ち込まれて,加害者としての意識も問われている。

 この問題が政治的に決着したとしても,被害者の理解と納得を得るような謝罪と補償は遠いであろう。

 重要なのは,とにかく冷静な論理を展開することである。

2 書いてはいけない内容

 次のような内容は,ついつい書いてしまいがちであるが,危険で,しかも建設的でないので,避けるべきだと思われる。下手に知識があると墓穴を掘りかねないのだ。

タブー1 ドイツにおける戦犯追及は,ナチスという他者をでっちあげ,このスケープゴートに責任を押しつけてしまう形をとっている。ゆえに彼らのやり方には,責任逃れの部分もあるのだ。

 そういう部分もあるかもしれないが,では他に,どのような追求の方法があるのか。これを言ってしまったら元も子もないではないか。

タブー2 ユダヤ人への補償が手厚いのは,ユダヤ人という民族の勢力,特に世界経済における地位に配慮したものである。

 アジア人は貧乏で力がないから,放っておけばよいというふうに聞こえる。これはまずい。

タブー3 上の世代の責任をなぜ今問われるのか。

 これは課題文にもすこし触れられているが,国家という一貫した単一の存在に世代もなにもないのである。個人ではなく国家としての賠償が要求されているのだ。

タブー4 どんなに賠償をしても,次から次へと要求がエスカレートするので,危険である。断固としてはねつけるべきだ。

 たしかにこういう意見もよく聞かれる。下手な前例を作って際限のない要求に道を開くことを「自発性パラドックス」と呼んだりする。これは結論というより,議論の出発点として使うほうがよい。つまり,どのような形でどこまで補償するのか,という議論にもっていく。それがこの問題の意図でもあるだろう。

3 考察

 こういう問題こそ,具体的な方法論を示すべきである。まず思いつかねばならないのは,

重要事項1 論争が起きるのは,往々にして事実関係がわからないからである

 という点だ。ドイツの補償の例があげられているが,一貫して裁判という形をとっている。つまり,補償は事実の綿密な調査と表裏一体の関係にある。このような関係性を指摘することは,法学部受験生の基本的な素養の一つといえるだろう。

重要事項2 問われているのは歴史観ではなく,平和的な解決である

 頭でっかちに理屈をこねても,問題が解決しなければ元も子もない。これが法学や政策科学の根底的な立場である。知識人による歴史認識論争は,意義があることではあるが,終わりがない。一方,政策を実施する者は,その時点における最適解を求めて,とにかく実行しなければならない。漠然としてはいるが,タイムリミットがある。議論に明け暮れて時を重ねることはできない。そのタイムリミットが,戦後50年を経た現在だというのである。何らかの立場表明が求められているのだ。

重要事項3 調査結果と補償額の算定を関連づけるためには,あらかじめ明示されたルールが必要である

 ちょっと難しいが,これは重要である。事実が判明したとして,その補償の方法と金額があとからどうにでも変更されるのであれば,「不平等」「事実上の補償の放棄」などと批判を浴びることになる。その結果として,上のタブー4にあるように,さらなる不満と要求を生み出すおそれがある。このような事態を極力回避するには,最低限,調査の方法と算定の基礎となる条文なり理論なりが必要である。

 ただし,理論万能ではない。ルールで捉えられない事例についてはその都度,ルールを決めたときの精神に照らして判定する必要がある。これは判例として残り,新たな参考基準として追加される。

 ドイツの自己批判と賠償が賛美され信用されるとすれば,その大きな理由としてこのような長期にわたる判例の積み重ねがあることを見抜くべきである。一朝一夕にはできないのだ。

 この「重要事項3」は,上の要約にあるような「被害者の理解と納得を得るような謝罪と補償」に近づく決定的な要素といってもよい。

 ここまで読んでもらった諸君には容易に理解できると思うが,この小論文の最大のテーマは,

どうしたら理解と納得を得られるような謝罪と補償に近づけるか

ということに真正面から答えることである。これ以外のこと,つまり感情的な正義論を展開したり,戦後の事件を追ったり,ドイツ批判をしたり,アジア人に疑惑を突きつけたり,所詮納得は得られないとあきらめたり,「みんなで考えて行くべきだ」式の小学生的な議論に終始したりしても,本質的な解答からは遠ざかるだけであろう。

4 答案例

 以上のような考察をもとに,答案例を示してみる。

 理解と納得が得られるような謝罪と補償は不可能に近いように見える。しかし,私はこれが政策的に可能であり,またその方向で実践していくべきであると信じている。

 確かに賠償の乱発や根拠のない謝罪を繰り返しても理解と納得は得られない。歴史認識についての議論は必要だろうが,現実的な判断を下すのには煩雑に過ぎることもある。求められているのは抽象的な正義ではなく,平和的な解決なのだ。

 ドイツの例をみてみると,裁判という形をとっている。つまり,賠償は厳正な事実関係の調査と表裏一体の関係にある。このような「制度としての謝罪」が,ドイツの行動に正統性を与えている。

 故に,恣意的判断を回避するためにも,調査や判断基準の基礎となる法制度の整備がまず必要である。もちろん制度は万能ではない。たえず議論にさらされ,検証されなくてはならない。しかしともかくも,歴史認識云々という前に,たたき台をつくることである。

 もちろん国家賠償を進める過程で,想像を絶する事例が噴出してくるであろう。しかしそれはむしろ歓迎すべきだ。通常の裁判と同様,判例を積み重ねていけば,国家賠償の形が明確になっていくからだ。

 そして重要なのは,このような判例と実績が長期にわたって積み重ねられることにより,さらなる納得と理解を促すという事実である。

 以上のように,私は徹底的な実践主義を提唱したい。日本人として責任をかみしめ,歴史認識を深めていくことも重要だが,残念なことにそれだけでは理解と納得を得る国家賠償の形は生まれない。アジア人が,そして世界がまず日本に求めているのは,果敢に試行錯誤している姿そのものなのだ。活力ある法制度の展開を期待したい。

5 おわりに

 「理解と納得の得られる国家賠償」といった大きなテーマを突きつけられて,受験生はパニックになったことだろう。周辺的な議論に逃げたくなった人も多かったと思う。しかし逃げる必要は全くないのだ。

小論文は必ずスッキリとした答案が書ける

ということを肝に銘じて,正攻法の学習をしてほしいと思う。

(1999.2.21)


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